点と線と円
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お越し下さりありがとうございます



まあなんとかなるかと
この数年の内、一番忙しい時期を送ってる。
他と比べたらそんなものでも無いのだろうが、自分的には忙しい。

今までの仕事を教え、
今度はこれから携わるであろう事を教わり、
今度は実地でやらねばならぬ。

ハッキリ言って不安要素しかないのだが、出来るか出来無いを考えてもしょうがないので、やるしか無いよなあと、つまりは覚悟の問題だと開き直って来た。
根拠は無いが、まあ、何とかなるだろうと自分では思っている。

この数年停滞してた我が人生…
何だかんだでここでは10年程勤務してる。

お店も当初とは様変わりし、有る意味、従業員である私も育てた一部を担い、それ以上にお客さんに育てられたなあと思う。
私の役割がひと段落したので、状況が動いたのかもしれ無い。

後は、潔く後から来る人に場を譲らねばならない。
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解答
ギリギリギリ…にて提出出来ました。

提出まで日数あったのに不甲斐ない。

と、嘆いても、出来はさておき、今回は(9回目にしてかよ)これが私の答えだ!
みたいな気持ちで提出できました。
それまでは何とか自分の想定する【出題者の解答】に沿うように答えを探してたので
苦痛な部分もあった訳で。
だから間違うことを恐れてた部分があったのです。

出題の意図も、過去の問題に対してだから、コレを出したのか。
と思うこともあり、スケールでっけえ……
と改めて思うこともあります。

皆さんの解答をたのしみつつ、暫く待つ日々です。
慣れない事と色眼鏡
仕事場にてとうとうバイトと入れることになった(まだ試用ぽいが)
そして、その仕事を教える立場になったのだ。
こう思ったのだ。
(や、やりたくねえ!)

とはいっても、立場的に私しかいないのだ。
嫌な理由をアレコレ考えて、理由なんざいくらでも積み上げられるが、すべき事は変わらない。
その人が嫌だ。信頼できるのか。悪い人だったらどうしようとか、母より年上の人に教えられるのか。
噂に聞く、あんな感じの(50の坂を超えられてない)人だったらどうしようとか。
こう考えると非常に小心者である。

せっかく来てくれる人に対して失礼も甚だしいと思う自分も居るし、
何故ににそこまで拒否反応が出るのか。

色々考えて、大きな原因といえば。

環境が変わるのに対し拒否反応が出てるのだ。
本格的に教えるという立場に私は今まで立ったことがない。
経験の無いことに対しての不安にとり憑かれてた。
さて、困った。

とは言ってもその日は来る。てか来た。

そして、その結果は。

思ったより大丈夫であった。
そりゃ、反省すべき点は色々あるし、こっちが学ばさせる事がある。
という事に気付いた点が大きい。

分かりやすく説明するには?
こっちの思った通りに動いてくれるようにするには?
何故これをする必要があるか?
すぐに手を貸さないで忍耐を持って見守る。
不自然にならない程度にサポートする。

いつもは自動化されてた業務内容を振り返る結果になった。

完璧にこなす必要も無いし、そこまで気張る必要はないのだ。


そして、私はここでしかの仕事を知らないが、あちらは子供を育て上げ、仕事も色々経験し、
私の知らない事を沢山知ってる人であり、主婦って凄いなあと思ったのである。

そしてあんまり面識のない人に対し、とんだ色眼鏡で見てたものか……
大した情報が無いのに、些細な事の情報で妄想が膨らみ、悪い方に考える。
それをしでかしてたのであった。

まずその情報が真実か見極め、そしてどうやらそうであっても、それはそれで善悪評価せず。
留置してたらそこまで感情は動かない。
未熟であった。

ここでの知らないことは教えるが、だからといって立場が上とかそんなに関係無いと思い知ったのである。
地獄でなぜ悪い


感想記事にあったこの曲と動画がイイ……
元気が出る。
人生って素晴らしい
思いもよらないことが多々あり、
予想外の事でうろたえ困惑することもあるけども
そういったことを含めて実は見えないところの全体で見事な流れを作っており
それを目の当たりにすると
自分が如何に小さいか
世界は常に完璧なのだと思い知り
何を言いたいのかというと、まあ、何が起こるか分からないから
人生って面白いなあと感じ入る次第です。
人に尻拭いさせる
仕事場には建物の中に従業員用のトイレがある。
一日に何回か清掃されてて結構清潔に保たれれる。
のだが、
私が使う時に限って汚れてるのだ。

手洗いスペースがビシャビシャ
ならまだしも
便器周辺がビシャビシャ。。。(和式の女子トイレである)
何の液体か考えないようにしているが、
かち合ったのでしょうがないと思いつつ
(ありえへん、ありえへん……)
と拭くだけ拭いておくことが結構な頻度である。

始め、何でこんな目に遭うのだろう?と理不尽さに辟易していたが
汚した人を馬鹿にして自分の方が立派な人間であると思ってるから?
その考えが間違ってるから何回も同じ目に遭うのだろうか?
などと思ってたが。
昨日ピンときた。

私はいろんな事他人に尻拭いさせてきたのだ。
仕事なんかやれるのにやりたがらず。
自分のしょっぱい思考、判断力で決めて自分には合わないと。
そのしわ寄せが他に寄ってることなんか思いもよらず不満ばかり募る。
こう言ってはなんだが、これは最低な人間だ。

これらのことに比べればちょっくら便器周辺拭くことなんざ
その時だけ我慢すればいいだけではないか。

周囲に無自覚に甘えて
大目に見てもらってきたのだ。

甘えるという事はその人を舐めてるのと一緒だ。
このぐらい良いだろうと、タカをくくり、そこには人同士の誠意の欠片すらない。

まだまだある。
もっと気づかないといけない事がある。
一緒
私もAさんともXさんとも変わらん。
一緒だ。一緒。

一緒と思ったが、私にはそこまでの勇気があるかと問うと、否定せざるをえないのだ。
しかしだからこそ躓かせた一端の責任がある。
たまたま、つつかれない位置に居ただけで思い当たる部分が大いにあるのだ。
私の行動と考えは。
自分のことは棚に上げて
少年Aの著作の『絶歌』話題になってるようだが、特にそそられる出来事ではないのでそれはそれとして置いて。
その母親著作の『少年Aを産んで』を子供の頃ウチにあったのを一回だけ読んだことがある。

その時の率直な感想としては、この人、常識人ぽいけど、なんか違和感あるなあ……だった。

さて、その時の母の感想は、母親は普通の人で落ち度は無いように見受けられる。であった。
わたしは空気を読んでお茶を濁しつつ、同調しておいた。

で、月日は流れ、成人後にアマゾンのレビューをたまたま読んでみると、
やっぱり違和感を感じた人は多数で私の感じ方は間違ってなかったんだ。と思った。
母は、そうとは感じなかった。おかしいのは母なんだと、思った。

そして、相似象やらパンドラのサイトやらで心の事を聞きかじると、私の心に増長する部分が生まれた。
母は何も分からない人物なのだ。私は分かる。
と、無意識に哀れみ見下し始めたのだ。

見下して、自分を上に据えることによって自立したのだ、自分は分かる人間になったのだ。
そう勘違いしてた。思い込んでた。

特定の苦手な人物が居る。
それはその人物に母の影を投影していた。実際雰囲気が似てる。
当の人物には迷惑極まりない。

見下してるのを自覚して、自分は何も分かってないのに傲慢さに戦慄した。

件の本の件だって、感想の一つであって、感受性の違いで人間の上下関係ないのに。
今読んだら感想も違ってくるだろう。
私は感受性の違いで人間を差別してるのだ。
肝心な事を見落として自分の都合の良いように解釈する。
どれもこれも自分を誇張して承認されたい欲求の自我があるのだ。

そして、母との関係を思い直すと、ただ、私の事を分かって欲しかった。
その一点に尽きる。

しかし、親子といえども他人。別の人間なのである。
完全に分かり合えないし、私も、母の事を完全には分からないのだ。
どういった道程で人生を歩んだのか、何を思ったのか。

心を学ぶのは、そこらへんに折り合いをつけて(諦めを受け入れる)ツールになる。
それを正しく使いたい。
今も心の何処かで、ここまでたどり着いたのだから、十分だろ。と思いそうな自分がいる。
実際そうやって何度も行ったり来たりしてきた。
失敗から何もかも学ぶ人は少ないが、何も学ばない人も少ないと思う。

何で人の嫌な部分は見えて、肝心なまごころは見えないのか……
その心はどこから
途中までポツポツとブログをやってて、途中からぐれんにリンクさせていただき、
当然っちゃあ当然、アクセス数が増える。拍手ももらえる。
嬉しい。
逆に少なくなったりしたら、落ち込む。

そんな時期があった。
正直そんなにこだわるなら拍手を正直撤去しようかとも思ったこともあったが、
なんとなしにその拍手の数でどんだけ自分が何を感じるか実際体感してみようと置いてみて今に至る。

やはり、数によって嬉しい、悲しい。感じてるようだ。

なぜ、拍手の数によって私は喜んだのか?
皆に認められたように感じたからか?認められることが良い事だと思い込んでる?
多い方が良い。と、自分でそのような価値観があるのだ。

かまって欲しい。認められたい。それを主軸に行動してるのだ。
相手の価値判断によって自分の感情が左右されてる由々しき事態。

喜びの心はどこから来たのか?
目に見えるもので判断して、自分の価値観で振り分け、それが良。と判断すれば喜びが生まれる。
喜びは無意識に良判定で浸ると考えなくなる。
そして、喜びは中毒のようにそれを求めてしまう。
浮かれて慢心という落とし穴に陥る。
福を払えとはそこらへんに通じると思う。

何処に自分は喜びを感じたか。
その心意気か?得したからか?認められたから?どれに重きを置いた?

感情の克服というと怒りやらにフォーカスしがちだけども、意外や意外、喜びも意外と根が深い。

私が喜びを感じる大きな要因。
他人に認められた場合、それを感じる。

自分が思った以上に認めて欲しい、分かってほしいという
他人にはどうしようもない部分に自分は囚われてるのだ。
それが得られないとネガティブな感情に飲まれる。

という自分の部分を意識したら、他人の承認欲求に付き合うのには多少寛大になれた。気がした。
しかし器は小さいのでイラッとはくるのだが。