点と線と円
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お越し下さりありがとうございます



理由
彫金を習いに来てた若い子が来なくなったそうな。
そうな。といのは、私はそっちの方はあまり感知してない立場にあるからだ。

なんで来なくなったのか。

・本人に問題がある
・本人には問題はない
・こっちに問題がある
・来れない事情が出来た
・心変わりした
・その他

あまり話したことは無かったが、少々浮ついてた感じがしたので、
大方、思ってたのと違う。
という説が有効と考える。
それと、社長も関係無い事頼んだりしたからかなあ。

でも、こういう場合って当事者同士は自分に問題は無いと考えてしまうのだ。
真相は本人にしか分からないし、それすらも自覚してないことはままある。
何となく、辞めた。とか。

私は職人ではないので知ったようなことは言えないが、
宝飾は煌びやかな物を作り、飾る、華やかな世界と思いわれがちだが、
これは完成の一瞬までが本当に地味な作業の連続なのだ。
よっぽどでないとこれは務まらない。
なので、要望に応えてちゃんと形にする人には頭が下がる思いである。

ちゃんと作るには基本が大事なのだ。とても地味である。
しかしそれが底力になり本物になる。

最近3Dプリンタなるもので何でも作れるそうな。
でもそれは中身のないスカスカな物だと思う。(用途と目的が適切ならアリだが)
限りある資源を使うならちゃんとモノづくりをしないと。
そう思う。

良い物を作れる人って手先の器用さより(ちゃんと続けてたらカバー出来る力量は身につく)、
アワ量がある人じゃないかなあ。
でも少なくても続けてたら少ないなりに波動量化するらしいから、諦めないでおこう。

話が逸れたが、来なくなった事は残念であると同時にやっぱりな。とも思った自分がいた。

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思考の実験

こうして、思考は現実になるこうして、思考は現実になる
(2014/04/21)
パム・グラウト

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これの実験をやってて、なにこれこわい(怖いと感じる部分も余計だが)
って思うことが起きた。

黄色い自動車を探そう→すぐ見つかる。
               この時期に大阪行ったが、あそこのタクシーは黄色がデフォなのには笑った。

黄色いちょうちょを探そう→ほとんどしない友人とのLINEのやりとりの中での
                友人が送った絵文字に一部に小さな黄色いちょうちょを見る。

プレゼントねだる→その日はお客さんからやたら食べ物を頂いた。

この仕事は向いてますか?→ハッキリした答えは分からなかったが、どんな因果関係か
                  オーナーが自動車事故を起こす。幸い酷いけが人なし。

ドクターマーチンのネイビーかブラックの革ブーツが欲しい→オーナーの奥さんから私にはもったいない                                                ブランドのネイビー革のバッグを頂く。

特定の人物にポジティブな気持ちを送る→滅多に来ない連絡来る。本人も機嫌が良さそうだった。

結果としては、何もしないよりはした方が何か起きてる。
特に黄色の自動車は今でも日常茶飯事的に見てる。
私の意識が今まで見えなくさせてたのだ。
難点は、思考は完全にコントロール出来ない。
もっとこう、お金巡ってくださいとか、願ってるのだが、
焦点を合わせやすい叶いやすい(と思ってる)黄色い車に今でも焦点が当たってるぽい。

断っておくが、私にはダウジングとか、ヘミシンクとか、チャネリングとか、霊能力とか、そこらへんの能力は無い。
トンデモオカルト怪しい話は好きな一般市民である。

そんな私にすら何か起きてるのだから、皆そうなのだろう。

思えば、自分に逆の思い込みを強いてた。
運が悪いとか、良い事は私には巡ってこないとか、逆の願いを込めてたからそれが叶ってたのだろう。
しかも無意識に。
考えればこの世界には際限が無く、内包してるエネルギーは途方もない。
だから、私一人の願いくらい願えばどんだけでも叶うような気がした。
宗教と信仰
宗教と信仰の違いとはなんだろうと思う。

私は特定の宗教は信仰してない。
では無宗教というわけではなく信仰心はある。

というか、宗教は特に必要としていない。

宗教(最近)→集団的 局地範囲
信仰→個人的 広域範囲

みたいな違いが思い浮かんだ。

というのもたまに以前記事に書いた子がたまに店に来てくれる。それはいい。
個人が何をして何を選択しようが属しようが自由である。
が、しかし。どうも創価に誘いたがってる気配がするのだ。

うーーん。
よっぽどでないと成人した人間は入信しないと思うのだけどもどうなのだろう。

ネット環境があれば創価組織の実態がゴロゴロ出てくる。
全てを鵜呑みにはしないが、火のないところに煙はたたない訳で。

この手の信者の私がめんどくさいと思っているのは誰も頼んでないのに勝手な都合で
(大抵は自分と自分らの信じる指導者の都合)勝手な思想を押し付けることだ。
今、気付いたが わたしはそれは耐え難いほど嫌う。
なんでそこまで他人に絶対の盲目的とも言える信頼感を寄せるのか。
自分の思考を明け渡すのか。
それは依存ではないか。

しかし私は上手く言い返せる度胸も頭の回転も持ち合わせてない。
はっきりと興味なし!
という態度を取らない自分にも問題がある。

・ハッキリ言ったら来なくなるだろう
・その子は精神的にどうも問題を抱えてるので下手に言えない
・そこまで親しくないから強く言えない
・この辺り信者多いから悪影響あったらどうしよう

みたいなリスクがあるので、困ったなーとなってる。
しかしこれも余計な考えとも言えなくはない。

宗教の私が思う嫌なところは人間のの考えるという過程を奪っているところだ。

それが嫌。

宗教というか最近のカルト系。

でも私には信仰心はある。
これは今の私には言葉にするのは難しい。
強いて言うなら、お天道様信仰。
あらゆるものに宿る霊性を信じること。
それはある。ずっと昔から存在していた。
見えないものを信じてる。

そして一目置く考えが相似象。

そういえばエホバの証人の冊子も定期的に置いてかれる。
私はどうも信者にしやすいタイプと思われてる節がある。
上記のに比べたら慎ましい人達と思ってるのだが、やはり勝手に思想を押し付ける。
皆好きなようにしたらいいから、私も好きにさせてくれ。

辛抱強い……
よくよく考えなくとも、お金を出してくれることは凄いことだ。
物の売買とか、労働の対価とか。

結構今の職場には長く勤めているが、
今思えば前の自分は
今よりもずっと物分りは悪いわ、そのくせ変にプライドは高いわ、言うこと素直に聞かないわ、
そのくせ不満は一丁前、周りのせいにして自分を改めようとはないとんでもない人間??
というか人間以前であったと思い返す。
このままだったら産まれる前からやり直しをさせられてたかも と割と真面目に信じている。

じゃあ今は改善されて真人間になったのかと言えば全然そうではなく、
あくまで自覚(これもまだまだ気づいてない部分がある)できるようになった。
ぐらいである。
しかしそれだけでも大分進歩で、前よりイライラすることは少なくなったし、楽しいと感じる時間は多くなったと思う。

なんというか、心に他人を入れる余裕があっても良いんじゃないかと思うようになった。

つまりは何かと言うと、今までよく私のような人間を雇ってくれてるなあと感じたのである。
大抵一人で店の事をやってるのだが、気が楽であり、
お客さんもいい人多いし、何だかんだで雇い主も良くしてくれてる。

ありがたいと思うようになったら、その人たちの為になる事に自分には何ができるかとか、考えるようになる。
そうなったら双方にいい事になっていい世界になるんじゃないかと希望を持った。


執着と諦めないの違い放棄も大事
人には相性があって、まあ、私にも当然いけ好かない人もいる訳である。
で、そのいけ好かない人と接触があるとどうも感情乱され面白くない気分に陥る。
私としては、どうしてそうなるか解消したいので原因を考えるのだけども、嫌な感情でまともに思考も出来るはずもなく
解決どころではなくなる。
考えてみれば嫌な相手の事に思考を割いてずっと嫌なことを考えてしまうのだ。
これはマズイ。
ならばいっそ下手な考え何とやらでそれはそれで、自分の心を平穏に保った方が自分と周りの為になるのではないか。

というわけで、考えすぎる前に誰も居ないところで鼻歌なんぞ歌ってみたら何となく気分が良くなった。

パラレルのおはなしだった
友人から誘われ演劇を見に行った。
そういう世界には疎いが、いわゆる社会人劇団みたいなもので 少人数で やりたい人たちが演劇活動する。
という集団の公演だった。

誘われたし、お芝居見るの嫌いじゃないし、場所が私の仕事場近くに長年あった謎施設だったので
ちょっと興味が湧いたので行くことにした。

過大な期待はしてなかったのだけども、観て良かったと思った。

油断してたら泣いた。
泣いた箇所はおかんの子に対する深い理解と愛情が現れる場面。
もう一箇所は自分たちの望みは叶わないと悟ったけども、それ含め、それでも救われた人たちの場面。

いわゆるパラレルものであったが、自分的には興味のある話で面白かった。

あと、こうやってやりたい事をやってる人たちに純粋に好意を持った。
興味を持てば面白いことはあらゆる所に色々ゴロゴロしているのだ。
問題集と、つまりは貧乏性
なんかんだで問題集は1~5まで欠かさずに購入&提出している。
これもひとえに、せっかく参加するなら自分の思う最大限に活用したいがためである。
確かに決して気軽な金額でもない。
でも、長い目で見てお金払うだけでこういう機会に参加でき、しかも思考力を増すことが出来るのだ。(自分比率)
普通に生きてて果たしてこれだけの事に気づき、思い知り得ただろうか?

思うにリターンは金額以上に大きい・・・と思うのでこうやって参加してるのだけども、
前回出来たと思ったら今回応用が利かないところをみると、これは分かったつもりだったんだなあとか
いい具合に凹まされ。
添削は正直怖い部分もあるけども、直接添削してくれるなんてとてもありがたいことなので、
脳汁出しながら解答するのである。

今回の添削。
余計な要素を付け足して本題から遠ざかる。
がネックになってたとの指摘。

思考しなきゃならないのだけども、余計なことを付け足すことが深い考えと思ってた節がある。
余計な勘ぐりというべきか。

私の解答までの流れは、問題に対し思い付いた事をとりあえず紙に書く。
それを2,3回繰り返しだんだんまとまってきたなという段階で文章化して、パソコン入力。
この一連の流れでも思いつきはどんどん出てくる。
いくら考えても分からないものも当然ある。
そして今まで出てきた考えを盛り込もうとしてしまうのだ。
せっかく出た考えを捨てれない。
活用しようとする。
つまりは貧乏性なのだ。

それが余計な要素になり、事を複雑化して解答から遠ざかる結果となる。

文章にすると原因と結果は分かりきってるのだけども、いざ実際の現実だと気づきにくい。
今回の指摘は問題集の事であったが、思えば日常生活でもそのような傾向はふんだんに有り、
要らぬ感情を害すこと多数。
事実と頭の中の解釈の剥離。

すぐにとは癖は直らないけども、自覚することは大きな前進となると思う。

あと、Q10を読んで。
こうやって誠実に向上しようとする人たちと共に歩めることがとても嬉しく感じた。

自分の質問も、もうちょっと考えれたんじゃないのー
と思ったが、私は質問とか苦手なんだと気付いた。
ちゃんと対象物を見てなく、自分の興味、本質に対して焦点がぼやけている為だと感じた。
けっこうしんどい
地元から友人が訪ねてきた。
たまに遠出したくなるらしく、こうやって遊びに来るのだ。
それは別にいい。
狭い我が家であるが、寝泊りする分にはどうってことない。

という訳で2日ばかし行動を共にするのであった。
そして彼女に気づいたことがある。
殆どものを考えてないという事に。

遠出して土地勘の無い場所に行く。
私ばかり調べてて彼女には調べるという概念すらすっぽ抜けてたみたいに
ただ、後をついて行くだけであった事が殆どであった。

ついて行くだけならまだいいが、やたらくっつきたがる。
無邪気な幼児がまとわり付く分には可愛気があるが、いい年した成人女性がやたらスキンシップを求める事に
私は些か疑問を覚える。
私はそういうのは求めてない。
仲良くするというのは彼女にとってそういうものなのか?
だとしたら価値観の違いだ。

分からない、こうして欲しい。
とかあるなら、意思表示が欲しいのだが、それすら思い付かないで、
相手が良くしてくれると無意識に思い込んでいある節がどうもあるように感じた。

という訳で、一緒に過ごしててうーーーん・・・・・・・

な感じであった。

しかし私にも問題がある。
私だって結構意思表示をしない。
そしてこうやって思っていることを直接言わないことだ。
言っても拗れるし、分からないだろうと決め付けてるのだ。
そして、安易に助け舟を出してしまう。

これは親切心ではなく、本人の為にならないだろうなあとは思ってる。
安易な助け舟も、そっちのほうが楽なのだ。
自分で解決できるなら自分でやったほうが効率が良い。

友人とは何だろうと最近特に思う。

しかし、価値観が違うならそれならそれで、良いでも悪いでもない。
ただ、合わない。
それが苦痛を生むなら、離れることになると思う。
問い質し
このところ、立て続けに私の生き方に関して問いただされる。
この年になってもぷらぷらフラフラ。何をしたのやら。
そんなの私にだって分からないのだ。
ただ、そのように問いただせれると、胸が苦しくなって泣きたくなる気分になる。

そうやっていつも思考より感情に飲まれて頭の中で勝手に喚く。

大抵
・今のままでいいじゃない!
・そんな恐ろしいこと言わないで!
・私は無力なのだ。
・無力なりに頑張って生きている。
・誰にも迷惑かけてない。
・悪くないのだから放っておいて。
・なにかしようとしてももう遅い。
・あきらめろ。
・希望なんてない。
・何も得られない。
・欲しがってはいけない。
・何もしてはいけない。
・めんどくさい。
・消化試合をするのだ。

というお決まりのパターンが自動再生される。
これらは私の頭が勝手に思い込んだでっち上げなのだ。
という事は知ってる。
のだが、今まで生きてて積み重ねたパターンは堅牢で、
どの真実よりも一番真実味を帯びて私の思考にまとわりつくから始末が悪い。

こうやって言語化できるようになったのもマシな方なのだ。

それは一理あるが、それのみが真実なのか?
私はそのような事は望んでない。
逃げてきたツケがきただけなのだ。
ちゃんと向き合わねばならない。
私というものに生まれたからにはその生を全うする義務がある……

みたいなことを最近考えるようになった。

具体的には??

やはり、何事にも本気ではないのだ。私は。

思考は実現する
昨日は感情が定まらずカリカリして不注意で火傷してしまった。
クソと毒づく。
声に出すほど熱かったのだ。
右手薬指と小指の接する面。
みるみるうちに赤く炎症になり、じっとしてても痛熱い。
このぐらいの怪我は放っといても治るが、しばらく不自由だなあと思ってた。

ふと、最近読んでる本の内容を思い出す。

こうして、思考は現実になる

巡回してるブログなどにちょいちょい出てたので入手したのだ。
この中に、捻挫した女性が身体に治まれと念じたら症状が軽減した。
と、いうエピソードがあった。

モノは試しにやってみる。
皮膚から痛みよ消えろ~とか、治まれ~とか、適当に念じてみる。

するとどうだろう。
1時間後には火傷をしたのを忘れるほど症状が軽減していた。
おお!と思った。確かに触れば多少ピリピリするけど全然楽である。

そして今日、ほぼ完治していた。

今までの火傷の経験から言うと、
赤くなり、皮膚の下がグズグズになり、そこから汁やらが出て、かさぶたになり、そこが剥がれて、治る。
という一連の流れがあったのにも関わらず。
今回それがない。

身体って意外とちょろいじゃないか。ハ、ハ、ハ。
と、調子付くのが私の悪い癖であるが、今回身体にちょっと働きかけたらちゃんと応えてくれたのである。
実際この身に起きた事なので感動した。
コストもかからない。
今度からも、なんかあったらまずこの方法を試してみよう。